久しぶりに、沖縄県芸の展示を見物。
P-point exhibition 4th 版−16人の仕事、ということで
沖縄県芸の教官、卒業生、在校生の展示だそうで、期待
大である。
そんでもって
たしかにレベルが非常に高く
特に、・・・といってもどれも素敵なわけだが、なにしろおぼろげな記憶だけで書いているので・・・
なにかの震度計みたいな計器の出力、の単純にして美しい版画
家族の写真を3年連続で海辺で撮影した素朴な写真と、海の写真。
コルセットみたいな服の版画
など。
これらには作者の気持ちやら意味やらがあるのかもしれないが
そんなこととはあまり関係がなく、つまり意味を考える必要のないところで、とても美しい作品なのであった。その美しさの中に彼らの気持ちが込められているのだとしたら
それは作者にとっては伝えるという意味で成功ということにもなるのだろう。
わたしには何の関係もないことだが。
まえから気になっていた
田中教官の作品もあったので見物。
特に、意地悪を言うつもりはないのだが
感想をそのまま述べておこうと思います。
まず、
沖縄での何かの反対運動の小さな写真を斜めにしたりしてばらばらに貼り付けた作品について。
この作品にもし、「意味」「イイタイコト」があるのだとしたら?
というテーマで、わたしなりに、この作品の「意味」について解釈をしてみよう。
先に述べておくと
美術作品というものは
そこに「意味」「イイタイコト」があるのだとしても
それが言語としての構造をタイトも持っているものでもない限りは
それは鑑賞者にゆだねられる「意味」であり「イイタイコト」になる、ということである。
つまり、解釈は幾重にも可能である。
構造があいまいであれば、さらにその可能性は大きくなっていく。
さて、この作品だが
おぼろげな記憶をたどると、まづ、背景にTシャツのシルエットがあったように思う。
その上に、小さな、沖縄でのなんらかの反対運動みたいなものの写真が
斜めだったり、横向きのものもあったかもしれないが、要するにテキトウな感じで貼り付けられている。
まづ、意味があるとしたら
沖縄のなにかの反対運動についてずいぶん軽く見ているわけだなということである。あるいは、楽しいイベントみたいな雰囲気なのかもしれない。
そこには深刻さは微塵もなく、反対して集金する、そういうテーマで今日も反対!みたいな
そういう軽さを表現しているように思える。
つまり、すがすがしい夏の日差しの沖縄で
なにをアホな反対運動などをしているのか?
時代遅れもはなはだしい。バカみたいだよなあ。ということが、わたしには「イイタイコト」として伝わってくるのである。
その解釈の元になる「言語的な構造」は上記のとおりである。
この作品から受ける、わたしなりの解釈はそういうものである。
さて、作品の「意味」など、わたしにはどうでもいいことなので
その作品の美しさ、という点でいうと、これはいただけない。
まず、ばらばらに貼り付けてある写真そのものから、美しさが感じられず、
ついで、その貼り付けかたのテキトウさがダメで
背景のTシャツなどとのバランスもよくない。
ぜひとも、美大受験のころの初心に戻って、
美とは何か?
という基本的なことから、もう一度考えてもらいたいものだ
と思う。
もうひとつの作品、というか2つの似たような作品については
左半分に写真、右半分に手書きの文章、という体裁である。
つまり「文章を読め」
というわけである。
一応文章を読んだのだが、それでなにがどうなのか?
という点でピンとこない。
文章を添える意味があったのかどうか。
これは沖縄の土着の新聞記事かなにかのつもり?
よくわからない。
たとえば、その隣に展示されていた、ほかの人の作品である「家族の写真」には
海という恒久の存在と、家族というはかないが強い存在とのシンクロが
何も語らずとも強く表現がされていたと思うのだがどうだろうか。
手書きの文章はなかなか味があってよい。
だが、
美術作品の中で語る、ということをどのように思っているのだろうか。
わたしは、美術作品において「語る」こと、「意味を付け加えること」を
安直には考えないほうがよいと思うほうなのだが
この人は何を考えて、このような作品を作るのか?よくわからない。
どうせ語るなら、もっともっと素朴に語ればいいのに。
と思う。
F/P/
- 2008/10/02(木) 13:24:21|
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沖縄県芸の在校生と卒業生によるグループ展
『ちょうちょ結び展』の見物のため
沖縄県立博物館美術館へ。
ここには県民ギャラリーというスペースがあり
気持ちの良い長い廊下を歩いた先に、その県民のための展示スペースが用意されていて
こうした空間的な気持ちのよさでいうと
県民思いのなかなか具合のよい展示場所なのである。
良い場所をちゃんと県民のために用意をする、というその姿勢がえらい。
+++
どの程度のつながりの人たちなのかはわからないが
こうした時系列での縦つながりの展示、というのはわりと見ていておもしろいところがあり
できれば、ソーシャルネットワークの時代でもあるから
同窓会的なつながりの中で、お互いに面識はなくてもとりあえずは参加をしてみた的な形で
「県芸という点だけで共通をする人々」の作品を世に見せる、というのも
悪くはない。
(わたしの場合であれば、強いて言うと大学の美術部である「黒百合会」だが
黒百合会の場合は、ネットを見ると地道にこうした活動を続けているようである。
当時、格安の年会費300円を自慢していただけのことはあり、結束が強いのであろう。)
芸術大学ともなると、卒業生には作家になるものも多くいるだろう。
その点でも、県芸が主催をするオフィシャルなものではなくて
自発的に参加をするという形のほうがずっと面白い。
なぜかというと、そこには、かならずしも「作家」と呼ばれるような人ばかりではなく
個人でのんびりと創作を続けている人も参加をする可能性が大きいからだ。
このちょうちょ結び展は、むしろ、知り合いのつながりが強い展示と思われるのだが
それでも、こうした展示を地道に行うことはとても貴重なことだと思われるので
今後も続けていってもらいたいものだと思う。
++++
見た感想をいいますと・・・
沖縄県芸の展示場所で見たようなものが、そこでもまた、展開されていたのであった。
かつて見たことのある人の絵が微妙に変化をしているのも興味深い。
接点が県芸しかないのであるとすると
その利点は、つながりの薄いイロイロな作風の作品が見れる、ということだ。
ただし、その接点である県芸では教授という存在もあって
その教官の、あるいはその場所での教育の影響というものもあるだろう。
そこから脱したもの(卒業生)とその影響下にあるもの、という見方で見物をするのも面白い。
そういう意味でいうと
県芸の教官(特に教授)も参加をすればいいのにと思う。

同居人の作品も展示されていて
それは蝶をデカルコマニーの技法で「描いた」ものである。
たしかに蝶の模様は、左右対称風でデカルコマニー技法そのままである。
それを単純に利用しているわけであるが、
蝶の羽がそうであるように、実はデカルコマニーも左右対称性が完全ではないのであって
どこか微妙に異なるのである。
デカルコマニーによって作られる、不定形なものの持つ不安定さと蝶の羽の美しさとが
微妙なバランスで溶け合い、その単純さによって、なかなかの良い作品に仕上がっていると思う。
蝶の羽の模様も、偶然性を強く押し出したものではなく
すでに知られている蝶の模様を、デカルコマニーによって具象として再現しようと腐心している様子が
作品からはうかがい知れる。
最終的に見せるという段階では、もうすこしデザイン作品的なサービスもあってもよいかもしれないがw
素朴さの勝利か。
F/P/
- 2008/08/28(木) 05:41:34|
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またしてもパレットくもじへお出かけしたので
ついでに那覇市民ギャラリーへ。
彫刻オンリーの展示で、なんとなくちょっと珍しい感じ。
人形を作り始めた個人的な事情から、最近、具象の造形が気になるのであるが、
彫刻の人独特の肉のつけ方というのがあって、それが面白いと思う。
絵画でも彫刻でもそうだが
あまり感情表現を安易につけてしまうと、とたんに陳腐なものになる。
これはなぜかというと
簡単に言うと、そこに嘘があるからだ、と思われるのだが
それだけではなくて、嘘のつき方にもいろいろな種類があるのであって
たとえば、演劇における演者の動きは嘘なのだが、まるっきり嘘とはっきりいえないところがあるのであるし、舞踏の動きなどでは、嘘なのか本当なのかよくわからないわけである。
それは要するにはじめに「意味」があって、その意味するところのものを表現する「きまりごと」「記号」があり、その意味を表現したい場合に、
その記号をそのまま出すと、逆に、なんだか「嘘っぽい」ピンとこないものに見えるというわけなのだ。
演劇の場合であると、その演劇が意味の上に成り立っているものであれば、むしろ意味を明確にする「記号」が上手に使われて意味が円滑に進行したりもするわけだが、なんとなく芝居くさい印象も同時に生まれるのである。
舞踏の場合には、そもそも意味がぼやけていて、そのぼやけた中で釈然としない意味を小出しに「形象」として見せたり見せなかったりしながら、表現できないものの表現を実現していく、と言ってもいいように思う。
どちらにしても、それはまず「嘘」であるという前提があり、嘘というのはなにかというと、あらゆる表現においては”「移し変えられたもの」=「表現」”という宿命があって、移し変えられたものはそもそも、その対象そのものではない、ということがまづあるわけだ。それは簡単に言うと、言語そのものの持つ宿命、「対象とは異なること」=「表現される言葉は偽者(嘘)である」という大きな背景がある、ということだ。
その意味では、うそつき活動=芸術行為、というものは、たとえば絵画で花の絵を描くにしても、それは「言語が対象になれないことへのせつなさを実感する」みたいなおセンチな活動でもあり、また、言語では到底支配できない「よくわからない全体」に対する淡い恋のようなものでもあるわけだ(同時に、絵の具と、その対象となった花との関係にあっては、言語的にのみ「嘘」であるという前提があり、そうでなければ、そもそも、それらは嘘でも本当でもないのである)。要するに、科学の神経症的な成り立ちとは違って、芸術の場合には、言語で置き換えられることを目指すのではなく、言語では置き換えられないことをこそ、最終的には獲得し鑑賞し、その「わけのわからないもの」への合一を求める活動なのである。ある意味では、言語など使わない以前というものがもしあれば、その時点への回帰の試み(しかし、到達は不能)であるのかもしれない。
特に、バレエなどにおいては、きわめて洗練された記号的な動きを要求され、その精密さを厳しく求められるわけだが、しかしながらバレエの美というものは、その究極の動きの中からも漏れ出す「何か」なのであり、鑑賞者が鑑賞し求めているものもそれなのではないか?と思うわけである。どのようにして、その漏れ出すなにかを導くか?ということの要は、精密さに熟達した者の動きの組み合わせであり、演出家の腕の見せ所であるわけだが、その多くの部分で、「肉体の動きの露出」そのものに依存をしている。要するにバレエといえども、肉なのであり、その肉を律するところの動きを見る、という部分も相当に大きいわけである。それはバレエにおける、性的な鑑賞態度といってもよいだろう。そして、それはまっとうな見方なのであるし、それは言語を飛び越えたものへの肯定的で、性的な視線なのである。
さて、彫刻に話を戻すと
彫刻もまた、肉体の表現ということが具象の要になるだろう。
そこには例によって「嘘」があり、その嘘を嘘たらしめる行為、すなわち対象を「記号化」する造形者の活動の末に、その結果となる作品が生まれるのだが、その結果を鑑賞者は「嘘」として鑑賞することになる。そして、嘘なのか本当なのかわからない境界上(嘘の限界上)で、美が染み出すのである。
個我の形象展では、上原よしさんの作品が、存在そのものを放っていて美しく、沖縄の空気と入り混じっていて、嘘と真実とが消え去り、語りえぬものだけが心地よく感じられる、そういう彫刻だったように思う。
F/P/
- 2008/08/06(水) 11:56:48|
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ガロ系である。
レオナール・フジタこと藤田嗣治の展示を観に、北海道近代美術館へ。
入場料は大人1200円である。
1200円というのは、結構なお値段ではなかろうか。どんだけ経費がかかるか、なんとなくアレコレ想像はつくけれども。
そういうことを無視して言うと1200円というのはやっぱり結構なお値段だと私は思うのだが
美術館の2Fからエンタランスをぼんやりと眺めていたら、人がわらわらと虫取り装置に集合する虫のように絶え間なく集まってくるのである。
美術館で美術を見るという愉しみはこれほどまでに人を惹きつける魅力のあるものなのか
と改めて思うのであるなり。
さて、レオナール・フジタ展を見ての感想だが
ひとことでいうと、ガロ系である。
具体的に言うと、乳白色のなんたらという括りの絵は、宮西計三の絵にそっくりだし
藤田の描く人の顔は、初期のころはマティスや夢二といってもいいけれども、ガロ系としては
新谷成唯だし、中期のころ?は、木村千穂の描く顔であったり西岡兄弟の顔であったり。
時代はもちろん、藤田のほうがずっと古いわけであるが、だからといってガロ系の作家が藤田のマネをしているわけではないと思われるので、つまりは、心性が似ているのではないだろうか。
というわけで、
私は、もはやレオナール・フジタ=ガロ系、としてしか観ることができないのであるなり。
それにしても、
藤田の作る、花瓶や箱やお皿がとても可愛らしくて素晴らしい!
特に、箱がかわいい。
なので、おもわず、お土産コーナーで大皿を2枚購入してしまう。
1枚3000円だけれども、この可愛らしい猫の絵のお皿で、目玉焼きを食べたりする様子を想像すれば
決して高くはないと思うのであるなり。
つまり、飾るのではなくて、使うのである。
いつまでやるのか知らないが、これはお勧めの展示なのです。
F/P/
- 2008/07/15(火) 20:53:57|
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道新ぎゃらりーというところで開催中の
「第4回手づくり製本展」へ。
本を自分で作る、というのはチマチマとした個人的な愉しみとして見てみると大変に面白いもので
そんなふうに思うひとも全国各地に大勢いるようで、また最近は特に面白いと思うひとびとが増えてきたようで、今回の展示についても、なんというか活況な印象を受けたのだった。
道新のカルチャー講座みたいなものの受講生さんたちの作品展であるのらしく
それぞれの味わいやら視点やらを持つ、さまざまな本が並んでいたのであった。
それらの展示されていた本は、どれも手にとって見てもよいようになっていて
なにしろ力作ぞろいなので、本が傷んでしまわないかと心配になったが
やはり、本というのは手にとって肌ざわりを確認したいもので、また、表紙を開いて見返しのマーブル紙なんかも鑑賞したいわけで、とてもありがたい展示なのであった。
これは、好きなひとにはたまらない愉しい空間である。
以前、どこかで豆本の展示を見て、学ぶところがいろいろとあったのだが
今回もいくつかの点で理解したことがあって、
テキトーな製本しかできぬ自分としては、実に有意義な時間なのであった。
豆本の好きな人、製本の好きな人にはとにかくおすすめの展示なのであります。
7月10日から15日までだそうですよ。
F/P/
- 2008/07/11(金) 02:03:52|
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